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ハマの魂、桑原将志:イップスを乗り越え、日本一のMVPへ至る「ガッツマン」の軌跡

はじめに:ガッツの体現者-MVP桑原がベイスターズを頂点へ導いた夜

26年という長い、長い夜が明けました。2024年11月3日、横浜スタジアムは歓喜の渦に包まれていました。福岡ソフトバンクホークスを破り、横浜DeNAベイスターズが1998年以来となる日本一の栄冠を手にした瞬間、その中心でひときわ眩い光を放っていたのが、最高殊勲選手賞(MVP)のトロフィーを掲げる桑原将志選手でした。

このシリーズにおける彼の活躍は、まさに伝説的と呼ぶにふさわしいものでした。全6試合で安打を放ち、打率.444を記録。日本シリーズ新記録となる5試合連続打点を叩き出し、守備では身を挺したダイビングキャッチで幾度となくチームの窮地を救いました。その姿は、彼の代名詞である「ハマのガッツマン」という称号を、これ以上ない形で体現していました。彼の闘志あふれるプレーは、単なる一選手の活躍にとどまらず、チーム全体のムードメーカーとして、26年分の渇望を力に変える起爆剤となったのです。

しかし、この栄光の瞬間は、決して平坦な道のりの先にあったわけではありません。彼のキャリアは、むしろ逆境と苦難の連続でした。プロ入り直後に襲われたキャリアを脅かすほどの送球イップス、レギュラーの座を失い、忘れ去られた存在になりかけた深いスランプ。本稿は、一人の野球選手が、いかにしてそれらの困難を乗り越え、常勝軍団を打ち破るチャンピオンチームの魂となり、日本シリーズMVPという最高の栄誉を掴むに至ったのか、その軌跡を深く掘り下げていきます。

才能が辿った茨の道

有望株の船出と試練

桑原将志選手のプロ野球選手としてのキャリアは、「内野手」として始まりました。京都の強豪・福知山成美高等学校時代、彼は主に遊撃手や三塁手としてプレーし、その高い身体能力でプロのスカウトから注目される存在でした。50メートルを5秒8で駆け抜ける俊足と、小柄な体格からは想像もつかないパンチ力を秘めた打撃。1年春からレギュラーの座を掴み、2年秋には主将に就任するなど、チームの中心選手として活躍しました。

しかし、彼の高校時代は栄光ばかりではありませんでした。2度にわたる部員の不祥事により、チームは対外試合禁止処分を受けます。甲子園という夢の舞台を、桑原選手は一度も踏むことができなかったのです。この若き日の不運は、彼のキャリアに付きまとう逆境の序章だったのかもしれませんね。それでも、その才能は高く評価され、2011年のドラフト会議で横浜ベイスターズ(当時)から4位で指名を受けます。将来の内野の要を担う存在として、大きな期待を背負ってプロの世界に飛び込みました。

キャリアを脅かした「イップス」という名の壁

プロ入り後、桑原選手を待っていたのは、才能だけでは乗り越えられない巨大な壁でした。送球イップス――。それは、精神的な原因などにより、思い通りにボールを投げられなくなる運動障害です。2013年頃、主に二塁手としてプレーしていた彼を、この深刻な症状が襲いました。簡単な送球ですら暴投を恐れるようになり、その精神的な重圧は、彼の持ち味であったはずの打撃にまで悪影響を及ぼし始めました。若き有望株にとって、それはキャリアの終わりをも予感させるほどの深刻な危機だったと言えるでしょう。

その時、彼に救いの手を差し伸べたのが、当時の二軍監督・山下大輔氏でした。山下氏は、桑原選手の苦悩を見抜き、内野手としての未来ではなく、新たな可能性を提示します。「外野手への転向」です。これは単なるポジション変更ではありませんでした。イップスの呪縛から彼を解き放ち、その類稀な身体能力を最大限に活かすための、まさに「窮余の一策」であり、桑原選手にとっては野球人生を繋ぐための「ライフライン」だったのです。

もちろん、転向は容易ではありませんでした。内野手とは全く異なる打球の追い方、距離感、そして何よりスローイングの感覚。そのすべてを一から学び直さなければならなかったのです。しかし、このコンバートこそが、桑原将志という野球選手を真に覚醒させるきっかけとなります。

逆境が才能を解き放つ

内野手としての挫折は、一見すると「失敗」の物語に映るかもしれません。しかし、より深く考察すれば、この送球イップスこそが、桑原選手が「ゴールデン・グラブ賞を受賞する外野手」へと飛躍するために必要不可欠な触媒であったことがわかります。

この転向劇は、一連のポジティブな連鎖反応を引き起こしました。まず、イップスの直接的な原因であった内野でのプレッシャーから解放されます。次に、広大なセンターの守備範囲は、彼の最大の武器である俊足と野球センスを存分に発揮できる最高の舞台となりました。結果として、彼は球界を代表する守備の名手へと成長を遂げ、ゴールデン・グラブ賞を複数回受賞するまでに至ります。

そして何より重要なのは、このキャリアを揺るがすほどの精神的苦痛を乗り越えた経験が、彼の代名詞となる「ガッツ」の源泉となったことでしょう。後に幾度となく見舞われる打撃スランプや、2024年の日本シリーズで見せた土壇場でのリーダーシップは、この若き日の苦闘によって培われた精神的な強靭さなくしては語れません。つまり、イップスは彼のキャリアを終わらせる呪いではなく、彼が「ハマのガッツマン」として大成するための、いわば原点となる出来事だったのかもしれません。

揺るぎなきアイデンティティの確立-桑原将志を構成する三本の柱

外野手として再出発した桑原選手は、攻・走・守の三拍子が見事に噛み合った、唯一無二のプレースタイルを確立していきます。それは、横浜DeNAベイスターズに欠かせないアイデンティティとなりました。

柱1:切り込み隊長の美学-積極性と「クワハラゾーン」

桑原選手の打撃を象徴するのは、その超攻撃的なスタイルです。特に、打席に入って初球からフルスイングする姿は、ファンや相手チームに強烈な印象を与えてきました。2017年7月1日の巨人戦、初回先頭打者本塁打に続き、9回には逆転満塁本塁打を放ちましたが、この満塁弾も初球を捉えたものでした。

この積極性は、単なる当てずっぽうではありません。桑原選手自身が「初球を振りにいくには根拠が必要。それまでに準備、頭の整理をしなければいけない」と語るように、相手バッテリーの配球を読み、自身のイメージと合致した時にのみ、迷わずバットを振り抜くという、計算された戦略に基づいています。このスタイルが機能する時、彼はチームに勢いをもたらす最高のリードオフマンとなります。石井琢朗チーフ打撃コーチも、短期決戦のキーマンとして「勢いと経験のあるクワに任せてみよう」と、その起爆力に絶大な信頼を寄せています。

しかし、この積極性は諸刃の剣でもあります。彼のキャリアは好不調の波が激しいことで知られ、タイミングがわずかにずれると、ボール球に手を出し、長い不振に陥ることも少なくありませんでした。一時期は、より慎重なアプローチを試みたこともありましたが、それは彼の持ち味を殺す結果にも繋がってしまいました。2021年の復活劇は、原点であるアグレッシブなスタイルへの回帰が大きな要因であったと言えるでしょう。

柱2:黄金の輝き-魂を揺さぶる守備

桑原選手のプレーで最もファンの心を掴むのは、その献身的な守備でしょう。フェンスに激突することも厭わず打球に飛びつき、抜けそうな当たりをダイビングキャッチでアウトにする。その姿は、まさに「ガッツマン」の真骨頂であり、一つのプレーでスタジアムの空気を一変させる力を持っています。2024年の日本シリーズで見せた数々のファインプレーは、チームに勝利の流れを呼び込む決定的な役割を果たしました。

しかし、彼の守備は派手さだけではありません。その根底には、卓越した技術と深い思考があります。桑原選手は、ゴールデン・グラブ賞を受賞した際に「派手さはいらない。ひとつのアウトを確実に取ること」を最も重視していると語り、そのために「一歩目の動き出しがすべて」だと断言しています。この言葉は、彼が単なる身体能力任せの選手ではなく、守備という技術を深く理解する職人であることを示しています。

その実力は、2度のゴールデン・グラブ賞受賞(2017年、2023年)という実績が証明しています。さらに、セイバーメトリクスの指標であるUZR(Ultimate Zone Rating)でも、常にリーグ上位の数値を記録しており、客観的なデータも彼の守備力の高さを裏付けています。データ分析の専門家からも「難易度の高い打球を期待値より処理しており、穴も見当たらない」と高く評価され、特に左中間への打球処理能力には定評があります。華麗なプレーと、それを支える確かな技術。この両輪が、桑原選手を球界屈指の外野手たらしめているのです。

柱3:解き放たれた韋駄天-スピードという名の戦略

桑原選手のもう一つの大きな武器は、50メートル5秒8という驚異的なスピードです。彼はただ足が速いだけでなく、そのスピードを戦略的に活かす術を知る、クレバーなベースランナーでもあります。

レギュラーに定着した2016年には19盗塁、2018年には17盗塁を記録するなど、その脚力は常に相手バッテリーへの脅威となってきました。桑原選手は、盗塁の成功率を高めるために、ベンチにいる時から相手投手の癖やモーションを観察し、塁に出た際のイメージを膨らませているといいます。また、スタートの技術だけでなく、帰塁の速さといった細部にまでこだわり、上田佳範コーチ(当時)と共に徹底した反復練習に取り組んできました。

彼が塁に出ることは、単に安打が一本増える以上の意味を持ちます。盗塁でチャンスを拡大し、相手守備陣を揺さぶることで、後続の強打者たちに有利な状況を作り出す。彼の走塁は、ベイスターズの得点力を最大化するための、重要な戦術の一つなのです。

浮き沈みのプロキャリア-栄光と苦悩、そして復活

レギュラー定着からどん底へ(2016年~2020年)

外野手転向後、桑原選手の才能は一気に開花します。アレックス・ラミレス監督の下で2016年に「1番・中堅」の座を掴むと、自身初の規定打席に到達し、11本塁打、19盗塁と躍動しました。翌2017年には全143試合に出場し、初のゴールデン・グラブ賞を獲得。チームを19年ぶりの日本シリーズへと導く原動力となったのです。誰もが、不動のリードオフマンの時代が続くと信じていました。

しかし、プロの世界は非情なものです。2018年、サイクル安打を達成するなど輝きを見せる一方で、プレーに安定感を欠き始めます。神里和毅選手らの台頭もあり、徐々に出場機会を減らしていくと、2019年には打率.186、2020年にはわずか34試合の出場で打率.139と、成績は見る影もなく急降下してしまいました。

桑原選手自身、この時期の苦悩を「何度も心が折れそうになった」「今日は試合に出られるのか、どうなのか気にしてばかりで……心の準備がきちんとできていない自分が情けない」と語っています。不振に陥ると、その悔しさが表情や態度に表れてしまうこともあったといいます。ファンからも、そしておそらくはチーム内からも、かつての輝きは失われたかに見えました。まさに、キャリアのどん底だったと言えるでしょう。

【表2】浮き沈みのキャリア-年度別打撃成績(2012年~2024年)

年度試合打数打率本塁打打点盗塁OPS
201233.333000.667
201356.000000.000
201453144.2571134.690
201560103.184151.494
2016133462.284114919.769
2017143598.269135210.747
2018127379.26192617.746
201972102.186272.553
20203436.139120.442
2021135519.310144312.843
2022130475.25743913.676
2023132429.2527353.674
2024106285.2705248.685

2021年の復活劇:「番長」との絆

2020年のオフ、チームに大きな変化が訪れます。新監督に、”ハマの番長”こと三浦大輔監督が就任したのです。この人事が、桑原選手の野球人生を再び大きく好転させることになりました。

2021年シーズン、三浦監督は周囲の予想を覆し、前年不振を極めた桑原選手を「1番・中堅」としてレギュラーに抜擢しました。これは、単なる期待感からの起用ではありませんでした。その背景には、二人の間に築かれた確かな信頼関係があったのです。2020年、桑原選手が二軍で苦闘していた時、ファームの指揮を執っていたのが他ならぬ三浦監督でした。監督は、一軍の舞台から遠ざかっても、決して腐ることなく、黙々と練習に打ち込む桑原選手の姿を間近で見ていたのでした。

この抜擢は、三浦監督がチームに示した明確なメッセージでもありました。純粋な成績やデータだけでなく、逆境に立ち向かう姿勢、野球へのひたむきな情熱、そして「ガッツ」を評価するという価値観の提示です。桑原選手の復活は、三浦ベイスターズの象徴的な出来事となりました。

監督の信頼に応え、桑原選手は水を得た魚のように躍動します。135試合に出場し、打率.310、14本塁打、OPS.843というキャリアハイの成績を叩き出し、見事なV字回復を遂げたのです。この復活は、技術的な改善以上に、指揮官からの信頼という精神的な支えがもたらしたものであり、彼の不屈の魂を改めて証明するものとなりました。

クラブハウスの心臓

ムードメーカーの素顔

グラウンドでの闘志あふれるプレーとは対照的に、ベンチ裏での桑原選手は、常に笑顔と笑い声の中心にいるようです。サヨナラ打を放った後のお立ち台で披露した「コマネチ」のポーズ、ファン感謝祭での芸人さながらのモノマネなど、その明るいキャラクターはチームのムードメーカーとして広く知られています。チームメイトのタイラー・オースティン選手が「一番面白いチームメイトはクワだ。いつだって俺を笑わそうとするからね」と語るように、国籍を問わず周囲を和ませる天性の明るさを持っているのでしょう。

しかし、その陽気な仮面の下には、繊細で思慮深い一面も隠されています。彼は、不振に喘いでいた時期の精神的な辛さを率直に認め、「正直、いつも不安ですよ」と、プロ野球という厳しい世界で生きる上でのプレッシャーを吐露したことがあります。結果が出ない悔しさが、知らず知らずのうちに表情や態度に表れてしまうこともあったといいます。この人間的な弱さ、脆さこそが、彼の「ガッツマン」というイメージに深みを与え、ファンが彼に強く感情移入する理由なのかもしれません。

リーダーシップの進化-炎の中で鍛えられた魂

桑原選手のリーダーシップのスタイルは、キャリアと共に大きく変化を遂げました。高校時代には主将を務めた経験を持つものの、プロ入り当初は「言葉で気持ちを伝えるのが苦手なので、プレーの姿勢で引っ張っていければ」と語っていました。同世代の柴田竜拓選手が「(自分たちの世代は)個性が強すぎて、誰もリーダーシップはないんじゃないかな(笑)」と冗談めかすように、かつての彼はチームを声でまとめるタイプではなかったのかもしれません。

その彼を、真のリーダーへと変貌させたのが、2024年のポストシーズン、特に日本シリーズでの経験でした。

ソフトバンクホークスに屈辱的な連敗を喫し、チームに重苦しい空気が漂う中、キャプテン牧秀悟選手の提案で開かれた緊急ミーティング。そこで発言を求められた桑原選手は、溜め込んでいた感情を爆発させました。「負けて悔しくないんか!」。その魂の叫びは、チームメイトの心を激しく揺さぶったのです。

この檄の背景には、7年前の苦い記憶がありました。19年ぶりに日本シリーズの舞台に立った2017年。当時、若きリードオフマンだった桑原選手は、大舞台のプレッシャーに完全に呑まれ、最初の3連敗で13打数無安打6三振と沈黙。「戦犯」の一人として、目の前でソフトバンクの胴上げを見つめることしかできなかったのです。その時の無力感と屈辱が、彼の心に深く刻み込まれていました。

7年の時を経て、同じ相手、同じような劣勢の状況で、彼はもう黙ってはいませんでした。過去の個人的な失敗を、チームを鼓舞するための力に変えたのです。この瞬間、彼は単なるムードメーカーから、チームの魂を背負って立つ、真のリーダーへと昇華しました。彼のリーダーシップが本物なのは、それが数々の挫折と苦悩という、誰よりも重い経験に裏打ちされているからなのでしょう。

おわりに:横浜に宿る不屈の魂

桑原将志選手の野球人生は、決してエリート街道を歩んできたわけではありません。それは、逆境に次ぐ逆境を、その名の通り「ガッツ」で乗り越えてきた、不屈の物語です。

プロ入り直後の送球イップスは、彼を打ちのめすどころか、球界を代表する外野手へと生まれ変わらせるための試練でした。度重なるスランプは、彼の心を蝕むのではなく、その精神をより強固なものへと鍛え上げました。そして、2017年の日本シリーズでの惨敗は、7年後にチームを日本一へと導く、情熱的なリーダーシップの源泉となったのです。

2024年の日本シリーズMVPという栄誉は、単なる一過性の活躍に対する褒賞ではありません。それは、イップスに苦しんだあの日から、レギュラーを剥奪されたあの時から、決して下を向かず、もがき、あがき、戦い続けてきた彼の野球人生そのものへの、最高の賛辞と言えるでしょう。

2011年のドラフト同期が全員チームを去った今、彼はベイスターズの歴史を知る貴重な存在となりました。ファンは、彼のひたむきなプレーに、かつてチームを牽引した波留敏夫氏の姿を重ねます。彼はもはや一人の選手ではなく、横浜DeNAベイスターズというチームの闘争心、その魂を体現する存在です。挫折の淵から這い上がり、栄光の頂点に立った「ハマのガッツマン」の物語は、これからも横浜の街で、ファンの心の中で、永く語り継がれていくに違いありません。

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